伝統の継承と沖縄民謡普及の立役者。
幼い頃から沖縄民謡界の中心にいて、今なお沖縄のみならず日本歌謡界の最前線で活躍する知名定男さん。名プロデューサーとしても知られる知名さんの独自の民謡に対するアプローチや、コザでの思い出を語ってくれました。
——知名さんは沖縄を代表する民謡歌手だけではなく、ネーネーズやフェーレー等のプロデューサーとしても知られていますが。
僕は自分の事をプロデューサーと思った事はないよ。誠仁さん(登川誠仁)もそうだけど、誰かを出演させたいと思ってステージやグループを作ってきただけ、流れの中でそうやってきたんだよ。民謡も12歳(昭和32年)の時に出たのど自慢大会がきっかけで誠仁さんの内弟子になったけど、歌や三線が好きという程のこともなかったんだ、変声期で声が出なくなったり、何度かやめようとした事もあったけど、当時はおかげさまで評判が良く、先輩方から呼ばれて、なんとなく民謡を続けていた。また、民謡界の素行の悪さが嫌だったからね。特に二大巨匠の(笑)
——二大巨匠の素行の悪さというのは、登川誠仁さんと嘉手苅林昌さんの飲み癖の悪さという事ですか(笑)。
そう(笑)。でも彼らがステージに立つと、その悪さを補ってあまりある演奏をしたんだな。それで、21歳頃民謡から離れている時にクラシックギターを始めて、バッハを練習したんだが、これが難しくて面白くない。そこで試しに民謡の「うどぅいくわぁでぃーさ」をクラシックギターで演奏して、その時、琉球音楽の良さを知り、目覚めた。そこからですよ、僕が民謡を続けていこうと決心したのは。
——そんな知名さんだからこそ、後にレゲエのテイストを取り入れた曲「バイバイ沖縄」やポップスの要素もある「ネーネーズ」を世に出す事ができたのですかね?
「バイバイ沖縄」を出したのは32歳の時で、レゲエのリズムを取り入れてたから斬新と言われたけど、僕は斬新とは思っていなかったよ。民謡をポピュラー風にアレンジしていた普久原恒男さんや照屋林助さん達に共感していたし、「バイバイ沖縄」は、当時復帰直後で、若い人たちはみんな東京に目を向けて、沖縄から出て行った。そんな人達の肩を後ろからたたいてやりたかった。沖縄の事を忘れるなよという、ウチナーンチュに向けたメッセージだったんだよ。でも、沖縄の民謡界から批判をあびた。「お前は大切な民謡の後継者だから」って。しかし、沖縄の伝統民謡を継承していくのも大切だけど、広く親しまれて貰う事も大切なんだよ。だから45歳の時に作ったネーネーズは、その僕の気持を代弁させたかった。ネーネーズにポピュラーな曲も歌って貰って、僕は伝統民謡に専念しようと思った。みんなに心配はかけないでおこうと思った。
——今ではその「バイバイ沖縄」やネーネーズから始まり、多くの島うたが県外の方に愛されていますよね。?
今、ビギンなんかが活躍していて、彼らがあの曲が好きだったという話を聞くと酬われたと感じるし、ネーネーズが活躍しているのを見てウチナーンチュが誇らしい気持になってくれるわけさ。
——先ほど普久原さんやコザのちゃんぷるー文化を代表する林助さんのお名前が出ましたが、知名さんも「コザ=ちゃんぷるー文化」というものは感じましたか?
コザには1960年〜70年にかけてルネッサンスがあったんだよ。沖縄中からいろんな人間が集まって来て交流ができ、そのあとに出てきた産物が音楽だった。コザはオープンでね、よその文化をかっさらって、自分達のものといいきるからね(笑)。ありとあらゆるものをとり入れてアイデンティティーを作っていった。コザんちゅのたくましさだね。林助さんはその「ちゃんぷるー文化」を代表する人だよ。
——知名さんらが活躍している一方で、コザではロックやジャズも盛んだったと思いますが、そういったジャンルとの交流もあったのですか。
ジャズ系との交流はあったけど、不思議とロックと民謡の交流はなかったね。ジョージ紫はカッチャンと親交を持ったのは30代になってからだよ。民謡やジャズクラブは中の町や諸見大通りがメインで、ロックはゲート通りやセンター通り(現、沖縄市中央パークアベニュー)だったからね。でも、後から聞いたらロックの連中も民謡聞きに来てたりしてたって。ジャズの連中とは仲が良くて、去年出した「島唄百景」はジャズのスタンダードナンバーばかりを集めた1001曲集のようなものを作りたかった。だから「島唄百景」は101曲入っているよ。これまでもこれからも、いろんな人達とのお付き合いの中からアイディアが産まれてくる。僕もコザと同じちゃんぷるーかもね(笑)。